アミノ酸分子結晶のテラヘルツ時間領域分光

1. 生体分子とテラヘルツ電磁波

 生体分子の機能はその構造とその動的特性に依存している。分子構造の決定には主としてX線構造解析やNMRなどの手法が用いられる。一方、動的な情報を探るためラマン散乱分光法や赤外吸収分光法、すなわちフーリエ変換赤外分光法(Fourier Transform InfraRed spectroscopy, FT-IR)が用いられる。ラマン散乱やFT-IRでは得られた分子振動に関する情報から分子構造を推定することも可能である。ところで生体分子、例えばタンパク質は室温での熱揺らぎ程度の大きさのエネルギーで機能発現あるいは構造変化を行っている。熱揺らぎのある環境で、熱揺らぎ程度のエネルギーでその構造や機能を正確に制御することは困難なように思えるが、生体分子は熱揺らぎをうまく利用しながら構造変化を制御し機能を発揮しているように思われる。したがって、生体分子の熱揺らぎ程度のエネルギーを持つ分子振動モードあるいは相互作用を観測し、その特性を理解することは生体分子の機能や構造を理解する上で非常に重要であると考えられる。室温の300 Kを周波数に換算すると約6 THz(= 200 cm-1)である。したがって6 THz付近からそれ以下の周波数のモードが生体分子の構造変化と機能に大きく関与しているのではないかと推定される。しかし、現状のラマン分光やFT-IRではそのような低振動数モードを直接観測するのではなく、分子の特定の官能基の振動モード、例えばO-H伸縮振動モードの周波数シフトやバンドの線幅の変化から、弱い相互作用や分子間振動の情報を得ている。しかし、もし低振動数モードを直接観測することができれば、分子構造及び機能に関連したより多くの動的な情報がより直接的に得られるはずである。

 生体分子内あるいは生体分子間で働いている弱い相互作用としては、水素結合、van der Waals力、疎水性相互作用などがある。水素結合はvan der Waals力あるいは疎水性相互作用くらべると比較的強い相互作用であり、また生体分子の機能と構造に関連してさまざまな局面で重要な働きをしている。例えばDNAの二重らせんの形成はアデニン(A)とチミン(T)およびグアニン(G)とシトシン(C)の核酸のペアがそれぞれ二重及び三重の水素結合により結合することで形成されている。またタンパク質が目的とする機能を発揮するためにはその機能に対応する適当な三次元構造をとることが必要であるが、脱水状態ではそのような三次元構造をとることができない。すなわち水分子が水素結合を通してタンパク質分子と水和し、介添え役のような働きをすることで、その構造が維持されている。フェムト秒レーザーを用いてピコ秒電磁波パルスを発生させ、かつその電界をサンプリング検出するテラヘルツ時間領域分光法(THz-TDS)は、従来困難であった低周波数領域の吸収スペクトルを高い信号雑音比で測定することを可能にした。THz-TDSは、生体分子に働いている弱い相互作用を探る手段として有望である。

 すでに初歩的な分光スペクトルがいくつかの生体関連分子に対して測定されている。MarkelzらはDNAのTHz帯吸収スペクトルを測定している(1)。BrucherseiferらはDNAの二重らせん状態とらせんを形成していない状態の吸収の違いを検出することに成功しており(2)、同グループのNagelらはストリップライン型共振器構造をTHz-TDSに導入しフェムトモル程度の微量DNAの同様な吸収の違いを検出することに成功している(3)。この吸収の違いは先ほど述べたDNAの二重らせん構造を形成している水素結合に起因していると考えられている。また、視物質のロドプシンに含まれるレチナールは光吸収により構造異性化する(11-cis-retinal → all-trans-retinal)ことが知られているが、構造異性体に対応してTHz吸収スペクトルが異なっていることがWaltherらによって報告されている(4)。このことはTHz帯の吸収スペクトルが分子の構造異性(Confromation)あるいは結晶構造に敏感であることを示している。我々は測定対象の生体分子として、分子量が小さく、したがって解析が比較的容易なアミノ酸微結晶を選びTHz帯吸収スペクトルの測定を行っている。アミノ酸はよく知られているようにタンパク質の構成分子(タンパク質に含まれるものは全部で20種類)であり、最近ではビタミンなどとともに栄養補助剤としても注目されている。アミノ酸の結晶はN−H・・・OやC−H・・・Oなどの水素結合ネットワークにより形成されている。したがって、アミノ酸は生体分子内や分子間の水素結合の特性や、その他の弱い相互作用の影響を調べるのに都合が良い。

 

2. テラヘルツ時間領域分光(THz-TDS)

 図1に我々が用いたTHz-TDS装置の模式図を示す。励起光源にはモード同期チタンサファイアレーザー(繰返し約80 MHzでパルス幅は約50fs)を用い、THz電磁波パルス発生と検出には光伝導(PC)アンテナ(低温成長GaAs基板を使用)を用いた。ここでは実験装置の詳細は省略するが、より詳しく知りたい方は、例えば文献(5,6)あるいは、本ホームページの“テラヘルツ基礎講座-テラヘルツ時間領域分光法”を参照していただきたい。


図1. THz-TDSシステム模式図


3. アミノ酸吸収スペクトル

3.1 L-phenylalanineとL-tyrosine

 図2にTHz-TDSにより測定したL-phenylalanineとL-tyrosineの微結晶のモル吸収係数スペクトルを示す(ポリエチレン粉末と混合し、ペレット状に押し固めたサンプルを使用)。L-phenylalanineはアミノ酸のR-CH(NH2)COOH構造のR部分に-CH2-フェニル基(ベンゼン環)がついたものであり、L-tyrosineはL-phenylalanineのフェニル基にさらにヒドロキシ基(-OH)がついたものである。両者の違いはOHが付くか付かないかだけの違いであるが、図2のスペクトルから分かるようにL-tyrosineには2.1 THz付近と0.95 THz付近に鋭い吸収ピークが現れているのに対して、L-phenylalanineにはそのような吸収ピークは現れていない。したがって、THz帯の吸収スペクトルが分子種の化学構造に非常に敏感であることが分かる。


図2.L-phenylalanine(破線)とL-tyrosine(実線)のTHz帯吸収スペクトル。


図3.L-alanine, D-alanineおよびDL-alanineのTHz帯吸収スペクトル。
縦軸は見やすいように少しずつ任意にずらしてある。



3.2 ラセミ化合物(Racemic compound)と純粋な鏡像異性体(Enantionmer)

 図3はL-alanine, D-alanineおよびDL-alanine (ラセミ化合物)の吸収スペクトルである(MgO粉末と混合したサンプルを使用)。20種類のタンパク質構成アミノ酸のうちglycineを除いてはすべて光学活性であり、DおよびLの鏡像異性体(Enantiomer)が存在している。生物のタンパク質を構成しているのはすべてL体のアミノ酸である。DL-alanine はD体とL体が等量混合されたものであるが、この場合は単なる混合物(ラセミ混合物)ではなく、D体とL体が対をなして規則正しい配列しているラセミ化合物となっている。

 DL-alanineの吸収ピークは1.24 THzに1箇所現れているのに対してL-alanineまたはD-alanineでは2.21 THzと2.55 THzの2箇所に現れている。このことはTHz帯吸収スペクトルが光学異性体の結晶構造にも敏感であることを示している。

 群論を用いたファクターグループ解析を行うことで、振動モード数の算出やモードの対称性による分類を行うことができる。D及びL体のalanine分子結晶の対称性はD42 (P212121)であり、DL体のalanine分子結晶の対称性はC92v (Pna21)であり、基本単位格子にはそれぞれn = 4個のalanine分子が含まれている。それぞれの分子は3つの並進自由度と3つの回転自由度を持つので、分子間振動モード数は6n−3 = 21個存在する。ここでマイナス3は純粋並進モード、すなわち音響フォノンモードに対応する並進自由度を差し引くことを意味する。ファクターグループ解析によればL-alanine(またはD-alanine)の場合、6A, 5B1, 5B2, 5B3,DL-alanineの場合、6A1, 5A2, 5B2 , 5B3 がそれぞれ21個の分子間振動モードに対応している(音響フォノンモードは除く)。

 L-alanine結晶のAモードはラマン活性であるが赤外活性ではない。B1, B2, B3モードは赤外活性かつラマン活性である。したがって、L-alanineの場合は5B1, 5B2, 5B3の計15個の分子間振動モード(結晶モード)が赤外吸収すなわちTHz-TDSで観測されることになる。

 一方、DL-alanineの場合、A2モードが赤外非活性で他のモードはラマン活性かつ赤外活性である。したがってDL-alanineでは赤外吸収またはTHz-TDSで観測されるのは、ラマン活性のみの6個のA2モードを除く、5A1, 5B1 , 5B2の計15個である。したがって、観測される吸収ピークの数は最大で15になると予想される(モードの周波数の偶然の重なりや縮重があると観測される吸収ピークの数は15より少なくなる)。

 我々のTHz-TDS測定で観測されているのは、上記の分子間振動モードのうち、周波数の一番低い1つか2つのモードに対応していることになる。DL-alanineとL-alanineで吸収スペクトルピークの現れ方が違うのは、結晶の対称性が異なるために、L-alanineで赤外活性であったモードがDL-alanineでは赤外活性ではなくなり、また逆にL-alanineで赤外活性ではなかったモードがDL-alanineでは赤外活性になるという現象が起きているためではないかと思われる。

 図4はD-alanineとL-alanineをある比率で混ぜ合わせ再結晶化させたサンプルの吸収スペクトルをTHz-TDSで測定し、DL-alanineに相当する1.2THzの付近の吸収ピーク(○)とL-alanineまたはD-alanineに相当する2.2THz付近の吸収ピーク(□)のモル吸収係数を横軸を混合比にとりプロットしたものである。それぞれの吸収ピークでのモル吸収係数は混合比に対してほぼ線形に変化しており、ラセミ化合物と鏡像対称体の定量が可能であることを示唆している。


図4. D-alanineとL-alanineを混ぜ合わせ、再結晶化後THz-TDSによりDL-alanine に対応する1.2THz付近のモル吸収係数と、L-alanineに対応する2.2THz付近のモル吸収係数とを混合比s= Md/(Md+ Ml)に対してプロットした。



図5.アミノ酸のラセミ化による年代測定

 

3.3 アミノ酸ラセミ化合物スペクトルの応用

 アミノ酸に限らず生体分子のラセミ化合物のTHz吸収スペクトルは一般にその鏡像異性体と異なっていると考えることができる。ラセミ化合物と鏡像異性体の混合比をテラヘルツ吸収スペクトルから定量できれば、光学活性な分子を含有する薬物の分析などさまざまな応用の可能性がある。

 アミノ酸ラセミ化合物スペクトルの応用として、面白いと思われるものをひとつ紹介しよう。生物の体はL体のアミノ酸、またはL体のアミノ酸を残基とするペプチドやタンパク質で構成されているが、生物が死ぬと、L体のアミノ酸は非常にゆっくりとD体のアミノ酸へ変化する。これをラセミ化という。ラセミ化の半減期はアミノ酸によって異なるが、およそ数千年から数十万年のオーダーである。したがって、化石に含まれるアミノ酸のD体とL体の比率から、その化石の年代を知ることが可能である(7)(図5)。D体とL体のアミノ酸混合物を再結晶化し、そのTHz吸収スペクトルを測定することによりDL体とL体の成分比を知ることができ、したがってD体とL体のアミノ酸の成分比を知ることができるので、THz吸収スペクトルより化石の年代を推定することが可能である。

 

4. 結語

 生体分子の低振動数モードすなわちTHz帯の振動モードは、THz-TDSの出現により、ようやく光があたり始めた状況と言える。今後THz-TDSが生体関連分子の機能及び構造研究にとって有用な分光手法となるためには、観測された振動モードと分子構造あるいは分子結晶構造との相関、及び水素結合やvan der Waals相互作用などとの関係の一般則を確立することが大きな課題である。これには、すでに確立されている中赤外域での手法が良いガイドとなると思われる。また、アミノ酸や糖類のような分子量の小さい分子だけではなく、タンパク質のようなマクロ分子の分光・分析をどのように行っていくかということも大きな課題である。タンパク質の場合、その構造は水和した水分子との相互作用を切り離して考えることができず、水溶液中あるいは水分を十分に制御した環境下でTHz吸収スペクトルを測定する必要がある。

 THz-TDSを生体関連分子の分光・分析手法として一般的なものするためには、光・量子エレクトロニクスや我々のような物理サイドの分光研究者だけでなく、化学・生物分野の研究者も巻き込んだ領域横断的な研究が進められる必要があると感じている。今後の研究がそのような方向へ発展することを期待したい。

執筆者:谷 正彦、山口 真理子、宮丸 文章、山本 晃司、萩行 正憲


 
◎ 参 考 文 献
(1) A. G. Markelz, A. Roitberg and E. J. Heilweil, “Pulsed terahertz spectroscopy of DNA, bovine serum albumin and collagen between 0.1 and 2.0 THz”, Chem. Phys. Lett. Vol. 320, 42 (2000)
   
(2) M. Brucherseifer, M. Nagel, P. Haring Bolivar, H. Kurz, A. Bosserhoff and R. Büttner, “Label-free probing of the binding state of DNA by time-domain terahertz sensing”, Appl. Phys. Vol. 77, 4049 (2000).
   
(3) M. Nagel, P. Haring Bolivar, M. Brucherseifer, and H. Kurz, A. Bosserhoff and R. Büttner, “Integrated THz technology for label-free genetic diagnostics”,Appl. Phys. Lett. Vol.80, 154 (2002).
   
(4) M. Walther, B. Fischer, M. Schall, H. Helm, P. Uhd Jepsen, “Far-infrared vibrational spectra of all-trans, 9-cis and 13-cis retinal measured by THz time-domain spectroscopy”, Chem. Phys. Lett. Vol. 332, 389 (2000).
   
(5) M. Tani, S. Matsuura, and K. Sakai, “Emission Characteristics of Photoconductive Antennas Based on Low-Temperature-Grown GaAs and Semi-Insulating GaAs,” Appl. Opt. Vol.36, 7853 (1997).
   
(6) M.Hangyo, T. Nagashima and S. Nashima, “Spectroscopy by pulsed terahertz radiation”, Meas. Sci. Technol. Vol.13,1727, (2002).
   
(7) B.J. Johnson and G. H. Miller, “Archaeological applications of amino acid racemization.” Archaeolometry, Vol.39, No. 2, pp.265-287 (1997).