テラヘルツイメージングによる初期ルネサンス絵画の分析
情報通信研究機構 福永 香

1. はじめに

 「私たちがずっと見たくて見られなかったものが,テラヘルツを使うと,作品を痛めずに見えるんです。」これは,先日,あるイベントでFirenzeの修復家が一般の方に伝えていた言葉です。テラヘルツ(THz)技術は,彼らが使いたい道具になりつつあるのです。イントロとして絵画の科学調査についてご紹介しましょう。作品はその保管されている環境(湿度,紫外線等)と時間によって劣化,汚損,損傷を受けます。作品の美しさを後世に伝えるためには,オリジナルの意匠を損なわないよう洗浄,加筆する修復が不可欠で,私たちが美術館で鑑賞している絵画のほとんどは,何世紀にもわたる修復の歴史があります。修復は医療に似ていて,まず作品を科学的に観察,調査し,修復方針を決め,限られた時間内に処置をします。調査は研究所レベルではX線回折による元素分析なども用いられますが,多くの場合は赤外,紫外,X線による写真撮影が用いられます。修復家,あるいは学問として作品を扱う美術史家の判断材料を提供する理系分野が「文化財科学」です。ヨーロッパでは,応用物理系の中に確立された分野で,Louvre美術館の地下では,最先端の計測設備と30人以上の常勤スタッフが,プロトン照射による微量元素分析などを行っています。そんな彼らが見たくても見えなかったものは「X線が透過してしまう物質でできた内部の構造」や「中赤外では見えないニスの下の顔料」です。それらがTHzイメージングで見えるということを,修復家の作業現場で実証してきました。

2. 絵画材料スペクトルデータベース(ライブラリ)

 中赤外領域でのユーザー向けスペクトルデータベースは分光器メーカーからライブラリとして販売されています。現状では,THz分光器にスペクトル集はなく,既知の材料のTHz帯での特性を知りたい,という人がユーザーです。文化財分析の分野でも,中赤外,ラマン分光についてはIR Raman Users Group (http://www.irug.org)という,世界各国の美術館,博物館の担当者の団体があり,顔料などのスペクトルを共有しています。3年毎に2百人規模の国際会議を開催し,次回はTHzのセッションをつくる提案があります。NICTでは2007年より絵画材料のTHz帯でのスペクトルを公開し,2008年に理研のデータベースと統合(http://www.thz.org),現在は約300種の絵画材料のスペクトルを掲載しています。図1は古代から用いられている重要な顔料,鉛白と水銀朱の例で,反射,透過ともに特徴あるスペクトルが得られています。絵画材料は,危険物のように特殊ではなく,岩石,土,動植物などが原料で,最近の合成顔料,樹脂は一般の工業製品に用いられているものと同じです。そのためデータベースは文化財関係者だけでなく,地質学,工業化学の関係者にも参考になるはずです。

3. 中世の技法で新しい時代の幕をあけたGiotto

 私がテラヘルツ波の特徴を同僚から知らされた時に最初に頭に浮かんだ対象が「テンペラ画」でした。表面が平滑で,中赤外分光では邪魔になるニスが塗布されています。完全反射する金が多用され,ベースの木で充分に乾燥していて,石膏下地の上に,比較的限られた種類の顔料と卵で彩色されています。大きな作品の場合,何枚もの板を金具でつないでおり,これらはX線で充分観察できます。しかし,彩色層の修復を行うためには,石膏下地などの構造が重要なので,許されればサンプリング(破壊検査)により,断面の電子線マイクロアナライザ(EPMA)等による元素分析も行います。それらを有名なエビやSuicaのように,THz波で非破壊,3次元で見せられたら....と思いました。図2は一部を石膏で覆ったテンペラ画サンプルで,金箔,水銀朱,ウルトラマリン,緑青,カーボンブラック,再表面に鉛白を用いたハッチング画法で製作しました。これをPicometrix社に持ち込み,T-Ray4000(周波数範囲:約0.1~2THz)を用いて反射イメージングを行った結果です。反射0%を黒,100%を白としたグレースケールで表しています。石膏はこの周波数ではほとんど透過するため,境界での散乱部分以外は金箔による模様が連続して見えます。また顔料部分に関しては,図1に示すように反射の得られる鉛白,水銀朱は白く現れ,他はほぼ黒になりました。また,画像として記録は残さなかったものの,層構造をしている断面画像が確認できたので,既存技術でテンペラ画を分析できる,という確証を得ました。2008年10月〜2009年2月にFirenzeのGalleria degli Uffizi所蔵の祭壇画Polittico di Badiaが修復される期間を利用して,2008年の12月にT-Ray4000を3日間借用し,THz波による調査を行いました。その結果,図3のように,顔料の下の金箔や,内部構造が非接触で観測でき,修復家達が「見たくても見られなかったもの」を見せることができました。さて,通常のテンペラ画は,ベースの平らな木の上に麻布を膠で張り,彩色の下地としての石膏層があります。しかし,この作品は,ベースの木の凹凸を平らにするための石膏層があり,その上に麻布が張られていました。これこそが,まだ絵画というジャンルが確立していない,祭壇の一部を削って平らにし,彩色する中世の技法です。古典技法を踏襲しながら,人間を描き,ルネッサンスの幕を開けたGiotto,この作品が,美術史上のマイルストーンであることを科学的に実証したことになりました。文化財関係者の間で「テラヘルツ」が大きな話題になるのは当然のことでした。2009年11月にはNew York Conservation Foundation 主催の国際会議においてTHz波の利用に関するセッションが設けられ,それまでにはルーブル美術館でも大きな作品の分析を行っていることと思います。

4. 汎用化にむけて

 ごく普通の材料で作られている文化財に役立つ技術が,一般の工業製品に使えないわけがなく,今後は高信頼性を要求される分野での複合材製品の「見たくても見られなかった欠陥の検出」等に応用されていくでしょう。装置に関しては,小型,低価格なリアルタイムイメージング装置などの開発が進められていますが,そろそろユーザーが注文をつけ出す時期ではないかと思います。装置の比較をしたい,動作確認用の標準試料が欲しい,電源をオンするだけで使いたい,定量性はどのくらいか,自分の分野のスペクトルライブラリは...等,中赤外領域ではごく普通の要求をしていくことが,技術の汎用化,THz関連産業の発展につながると信じています。